Masuk記録は始まった。
ユキコの人生は、確かに壮大だった。彼女は不老技術の黎明期を生き、二度の星間戦争を経験し、火星のテラフォーミングを目撃し、初の異星生命体との接触にも立ち会った。人類史の転換点のほとんどを、彼女は直接見てきた。
「2075年、私は45歳でした。不老技術の第一次治験が始まったとき、私は迷わず応募しました」
ユキコの声は淡々としている。
「なぜ応募されたのですか?」
「怖かったからです。死が」
ユキコは湯呑みを両手で包んだ。
「当時、私の母が癌で亡くなったばかりでした。68歳でした。最期の数ヶ月、母は急速に衰えていきました。かつて威厳のあった母が、日に日に小さくなっていく。言葉を失い、自分の名前も忘れ、最後には私のこともわからなくなった。私は思ったんです。これが人間の終わりなのか、と。こんな惨めな終わり方をするために、私たちは生まれてくるのか、と」
アキラは黙って聞いていた。
「だから飛びついたんです。永遠に生きられる技術に。二度とあんな終わり方はしたくないと思った。でも――」
ユキコは言葉を切った。
「でも、私は間違っていました。死を避けることは、生を避けることだったんです」
アキラの胸に何かが引っかかった。その言葉の意味を、彼はまだ完全には理解できなかった。
「続けてください」
「はい」
ユキコは窓の外を見た。雨は相変わらず降り続けている。
「私は27人の伴侶を持ちました。最初の夫、ケンジは不老技術を受ける前に亡くなりました。58歳でした。それ以降の伴侶たちは皆、不老技術を受けていました」
27人。アキラは心の中でその数字を反芻した。
「しかし、永遠を約束した関係も、いつかは終わります。100年、200年と共に過ごすうち、愛は変質していくんです。最初の情熱は薄れ、親密さは馴れ合いになり、驚きは既視感に変わる。そして、ある朝目覚めたとき、隣に寝ているのが誰だかわからなくなる。いえ、名前は知っています。顔も知っています。でも、その人が『誰』なのか、わからなくなるんです」
ユキコの声に、わずかな震えが混じった。
「永遠に一緒にいることは、思ったよりもずっと難しかった。むしろ、不可能だったのかもしれません」
「別れは、どのように?」
「静かでした。いつも」
ユキコは微笑んだ。悲しそうな微笑みだった。
「怒鳴り合うこともない。泣くこともない。ただ、ある日、どちらかがこう言うんです。『そろそろ、別々に生きてみようか』と。そして相手は頷く。『そうだね』と。それだけです。荷物をまとめて、握手をして、さようならを言う。まるで長い仕事を終えた同僚のように」
「寂しくはなかったんですか?」
「寂しかったです。でも、それ以上に空虚でした。何かが、根本的に欠けている気がしたんです。でも、それが何なのか、わからなかった」
ユキコは湯呑みに口をつけた。
「私は148人の子供を持ちました」
アキラは目を見開いた。148人。
「そのうち23人を見送りました。不老技術があっても、事故はあります。宇宙船の爆発、テロ、予期せぬシステムエラーによるバックアップの喪失。あるいは――」
ユキコは言葉を切った。
「あるいは、自ら死を選んだ者もいました。私の三女、アイコは500歳で自死を選びました。理由は、『飽きた』でした。人生に。存在に。永遠に」
部屋に沈黙が降りた。窓を打つ雨の音だけが、静かに響いている。
「私の人生を年表にすれば、立派な歴史書になるでしょうね」
ユキコは静かに笑った。
「不老技術の第一次治験参加者。火星移民計画の初期入植者。アンドロメダ銀河探査隊の医療責任者。異星生命体との初接触における言語学顧問。第二次人工知能戦争の和平交渉団メンバー。そして、第三世代量子意識転送技術の開発主任――」
彼女は自分の手を見た。皺だらけの、老いた手を。
「でも、アキラさん。私が本当に話したいのは、そういうことではないんです」
「わかっています」
アキラは答えた。
「皆さん、そうおっしゃいます」
ユキコは窓の外を見た。ちょうど雨が強くなり始めていた。
「雨の日のことを、お話ししてもいいですか」
「どうぞ」
それから1000年後。 人類は、ついに不老技術を放棄した。 それは突然の決断ではなかった。数百年かけて、徐々に、社会的コンセンサスが形成されていった。 永遠に生きることの虚しさに、多くの人が気づいたからだ。 終わりのない人生は、始まりも持たない。意味も、価値も、美しさも、すべて有限性の中にこそある。 人間は、再び死すべき存在となった。 平均寿命は150年に設定された。十分に長く、しかし永遠ではない。人生を二度、三度生き直せるほどの長さ。しかし、いつかは終わりが来る。 そして、終焉士という職業も、消えた。 もはや必要なくなったのだ。誰もが、自然に死を受け入れるようになったから。 しかし、記録は残った。 永久保存庫には、数百万の物語が眠っている。永遠を生きた者たちの、有限だった頃の記憶。 その中に、一つの記録がある。「アキラ・サトウの物語」 彼は結局、死を選ばなかった。 1500年生きて、自然に消えていった。不老技術が放棄された後も、彼は記憶を保持し続け、すべての痛みと喜びを抱えて、最後まで生きた。 彼の最後の言葉は、記録に残っている。 それは、彼が最期を迎える数時間前、窓辺で呟いた言葉だった。「雨が止んだら、どこへ行こうか」 その言葉の意味を、当時の人々は誰も理解できなかった。 でも、記録は残った。
それから10年が経った。 アキラは、終焉士を続けていた。記憶を消すことはやめた。すべてを覚えている。痛みも、喜びも、10,247人の死も、アヤの笑顔も。 重い。とてつもなく重い。朝起きるたびに、その重さに押しつぶされそうになる。 でも、生きている。 そして、不思議なことに、その重さが、彼を生かしていた。 記憶の重みが、一瞬一瞬に意味を与える。今日という日は、二度と来ない。だから、大切にしなければならない。 アキラは、10年間で832人の死を見届けた。合計で11,079人。 しかし、数は問題ではなかった。一人一人の物語が、彼の中に生きている。 ある雨の日、新しい訪問者が事務所を訪れた。 若い女性だった。外見年齢は25歳ほど。長い黒髪、大きな目、どこか不安そうな表情。「失礼します」「どうぞ」 アキラは立ち上がり、彼女を迎えた。「お名前は?」「ミサキです。ミサキ・ヤマダ。125歳です」 125歳。若い。とても若い。「終焉士の予約をしたいのですが」「椅子をお選びください。お茶は?」「コーヒーを」 アキラは丁寧にコーヒーを淹れながら、彼女を観察した。 彼女の目には、深い疲労があった。125年という時間は、彼女にとって十分すぎるほど長かったようだ。「おいくつで不老
ユキコが去った後、アキラは長い時間、窓辺に立っていた。 虹は既に消えていた。でも、その余韻が空気の中に残っている気がした。 彼は、ふと思い出した。アヤと一緒に見た虹のことを。 それは結婚して2年目の夏だった。二人で海辺を歩いていたとき、突然の雨に降られた。近くの東屋に逃げ込んで、雨が止むのを待った。 雨が上がったとき、空に大きな虹がかかっていた。 アヤは言った。「ねえ、虹って不思議よね。雨と太陽がないと、生まれない」 アキラは頷いた。「そうだね」「悲しみと喜びが一緒にあるから、美しいのかもしれない」 アヤはそう言って、アキラの手を握った。「私たちの人生も、きっとそうよ。楽しいことばかりじゃない。辛いこともある。でも、両方があるから、美しいんだと思う」 その時、アキラはアヤの言葉の意味を完全には理解していなかった。 でも、今ならわかる。 人生は、喜びと悲しみの両方で成り立っている。どちらか一方だけでは、完全ではない。 永遠に生きることは、その喜びと悲しみのバランスを壊す。すべてが平坦になり、すべてが当たり前になり、すべてが色褪せる。 でも、有限な時間の中では、一瞬一瞬が輝く。 アキラは記録端末を開いた。そして、新しいファイルを作成した。 タイトルは「未来の私へ」。 彼は書き始めた。「未来の私へ これは6回目の手紙です。あなたは、また記憶を消
アキラは答えに詰まった。「わかりません」「正直でよろしい」 ユキコは微笑んだ。「私もそうでした。3000年生きて、もう十分だと思った。でも、本当に終わりたいのかと問われれば、確信が持てない」「では、なぜここへ?」「理由を見つけたかったんです」 ユキコは窓の外を見た。「生きる理由じゃない。死ぬ理由。生きることに疲れた、それだけでは不十分な気がして」「見つかりましたか?」「いいえ」 ユキコは首を振った。「でも、あなたと話して、わかったことがあります」 彼女はアキラを見つめた。「私たちは、答えを求めすぎているんです。なぜ生きるのか、なぜ死ぬのか、人生の意味は何か。でも、そんな問いに答えはない。あるのは、ただ――」「問い続けること」 アキラは呟いた。「そう」 ユキコは頷いた。「アヤさんが言っていたでしょう。人生に意味があるとすれば、それは問い続けたことそのものだって」 アキラは息を呑んだ。 そうだ。アヤの記録の中に、そんな言葉があった。彼は思い出した。 アヤは言っていた。「人生に意味があるとすれば、それは私たちが問い続けたことそのものだと思うんです」と。「答えは出なかった。
アキラは記録装置の前に座った。 しかし、話し始めることができなかった。 500年の人生を、どう語ればいいのか。10,247人の死を見届けた男の物語を、どこから始めればいいのか。 彼は自分の手を見た。若い手だ。30歳の肉体を保っている。でも、この手は500年分の重みを知っている。 そのとき、扉がノックされた。「どうぞ」 入ってきたのは、意外な人物だった。ユキコだった。「まだ、死んでいなかったんですね」 アキラは驚いて言った。「ええ。予定を変更しましたの」 ユキコは微笑んだ。「あなたのお手伝いをしようと思って」「手伝い?」「あなた、自分の記録を取ろうとしているでしょう? でも、一人では難しいわ」 ユキコは椅子に座った。「終焉士には、終焉士が必要なんです。誰かが問いを投げかけないと、物語は始まらない」 アキラは長い沈黙の後、頷いた。「お願いします」「さあ、話してください。アキラ・サトウの物語を」 アキラは深く息を吸った。そして、ゆっくりと語り始めた。「私は、妻の死をきっかけに、終焉士になりました」 言葉が、ゆっくりと溢れ出してくる。「彼女の死を受け入れるために。いえ、違う。彼女の死から、逃げるために」
それから3日間、アキラは誰にも会わず、事務所に閉じこもっていた。 彼は、すべての記録を読み返していた。自分が見送った10,247人の人生を。一つ一つ、丁寧に。 そして、彼はあるパターンに気づき始めた。 人々が最も大切にしている記憶は、必ず「有限だった時代」のものだった。 不老技術を受ける前の、限られた時間の中での、かけがえのない瞬間。 恋人との初めてのデート。 子供の誕生。 親の最期。 友との別れ。 雨の日の傘の下。 それらは、すべて有限性の中で輝いていた。 逆に、不老技術を受けた後の数百年、数千年の記憶は、ぼんやりと曖昧だった。確かに多くのことを経験したはずなのに、何一つ心に残っていない。 ある男は、火星に300年住んでいたが、その記憶はほとんどなかった。 ある女は、50人の恋人を持ったが、誰一人として鮮明に思い出せなかった。 ある夫婦は、800年一緒に暮らしたが、最後の500年については「何もなかった」と語った。 なぜか。 答えは明白だった。 永遠は、意味を奪うのだ。 アキラは哲学の古典を読み返した。ハイデガー、サルトル、カミュ、キルケゴール。彼らは皆、死と有限性について書いていた。 ハイデガーは言った。「人間は『死に臨む存在』である」と。死があるからこそ、人間は本来的に生きることができる。自分の有限性を自覚することで、人は初めて真に実存する、と。 サルトルは言った。「実存は本質に先立つ」と。人間には予め定められた本質などない。ただ、限られた時間の中で選択を重ね、自分を創造していく。その選択の重みが、死によって保証される、と。